神戸経済ニュース 編集長ブログ

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神戸ABCの旅(7)「G」外国人墓地

●第7回 「G」 外国人墓地

 シリーズ「神戸ABCの旅」ですが、第7回になりました。神戸の地名をアルファベット順に1カ所ずつ訪ねていくうちに、長らく離れていた神戸の土地勘も戻るのではないか、という企画です。このシリーズにしては更新の間隔が短いのではないかとの指摘を受けそうですが、その通りです。前回と同時に取材しました。とはいえ神戸にとっては大切な場所であるかと思います。それでは、お付き合いください。

 

 小学校のころに遠足で修法が原には何度も訪れておりながら、遠足で外国人墓地に立ち寄ることはありませんでした。当然ながら、現役の(?)墓地だからでしょう。普段は一般公開もしていません。ただ、外国人墓地のアプローチは普通の道路とは異なり、レンガで舗装しているので、すぐに分かります。

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レンガで舗装した外国人墓地への入り口

 修法が原から普通の舗装道路を少し歩くと、外国人墓地への分岐があります。普段は一般公開していませんが、4〜11月の第4日曜日はガイドさんが付いて案内をしてくれるそうです。ただ事前に、往復はがきによる申し込みが必要だということでした。このときは特に何の準備もしていなかったので、普段から公開されいる場所のみを、たどることにしました。ちなみに、修法が原と外国人墓地の位置関係は以下の通りです。

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再度公園の案内図 外国人墓地の位置は黄色く強調されている

 外国人墓地は最初から、ここにあったわけではないそうです。別の案内板によると神戸開港直前である1967年のクリスマスに、現在の東遊園地東側にあたる生田川尻の小野浜で最初の外国人が埋葬されたといいます。その後、小野浜の墓地が手狭になると、青谷付近の春日野(現在の中央区篭池通あたり)に新たな外国人墓地を設けたそうです。その後、市街地拡大のため春日野墓地から1952年に、小野浜墓地から1960年にそれぞれ墓石を移したことで、現在の外国人墓地が形成されたそうです。英文名称は「Kobe Municipal Foreign Cemetery」。神戸市営の施設です。

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西洋式の墓石が並ぶ

 ここが神戸にとって、いかに重要な施設であるかは埋葬されている人の顔ぶれが示しています。ここには明治以来、日本とかかわりを持った人や、その日本人妻などの2900人が眠りについているといいますが、その中には初代神戸港長のマーシャル氏、日立造船の創業者であるハンター氏(ハンター坂のハンターさん)、神戸の洋菓子を有名にしたモロゾフ氏、パン職人のフロインドリープ氏、神戸女学院の前身である神戸ホームを創設したタルカット氏、関西学院大学の創設に尽くしたランバス氏、日本初のスポーツクラブである神戸レガッタ・アンド・アスレチック・クラブを作ったシム氏らも含まれているのです。いまの神戸の街や文化が形成されるのに、先頭を切って走った人たちです。

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勇士の慰霊塔

 「勇士の慰霊塔」は第一次世界大戦のとき、阪神間に住んでいた英国人とフランス人で、それぞれ祖国のために出征し、戦死した19人のための慰霊碑だといいます。この碑の脇に立っていた案内板によると「外国人団体」が1921年(大正8年)に春日野墓地で建立し、1961年に移設したものだそうです。英仏は連合国だったことから、共同の慰霊碑になったということでしょうか。

 

 普段から一般公開している場所は、慰霊碑の少し上にある展望台までなのですが、その展望台からは深い谷の向こうに、近代的な都市が突如として山の上に浮かび上がっているのが見えました。鈴蘭台でした。写真が撮れておらず残念なのですが、空中都市ともいえそうな、やや意外な風景でした。

 振り返ると、外国人墓地がこの地に写った後、本格的な「山、海へ行く」(六甲山を削って住宅地を造成した残土で海を埋め立てて、海にも工業地や住宅地を開発する手法)が本格化します。鈴蘭台が避暑地から住宅地への転換したのは1961年。その結果として浮かび上がった空中都市の鈴蘭台を、神戸を作った人たちはどのように眺めているのでしょうか。

神戸ABCの旅(6)「F」再度公園

●第6回 「F」 再度公園

 シリーズ「神戸ABCの旅」ですが、ようやく第6回です。神戸の地名をアルファベット順に1カ所ずつ訪ねていくうちに、長らく離れていた神戸の土地勘も戻るのではないか、という企画です。こんな調子では、なかなか土地勘は戻りませんね。しばらくぶりですが、お付き合いください。

 

 なかなかFで始まる地名が決まらないうちに、ずるずると間隔が空きっぱなしになっていましたが、ようやくこれに乗ったわけです。

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土日祝のみ運転する25系統

 

 神戸市バスなのに、なぜか三宮バスターミナルの有馬や淡路島へ行くバスと同じ乗り場から乗車します。森林植物園行きですが、もちろん森林植物園までは行きません。行くのは「F」の再度公園です。車両は普通の路線バスですが、「バスはこれから市街地を抜けて…」と観光案内のアナウンスがテープで流れます。片道420円、約30分のバスの旅。もちろんイコカやパスモも使えます。

 

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再度公園・修法が原池

 バスを降りてバス停から少し歩くと、再度公園にある修法が原(しおがはら)池のほとりに出ます。修法が原。どういうルートをたどったのか分かりませんが、小学校の遠足で来て以来だと思います。上の写真の画面左に見えている小屋風の建物は、以前はボートハウスだったのですが、カフェなどの施設に模様替えしたというのは神戸市の発表で知っていたわけです。それで、いちど来てみようかなと。

 

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修法が原の広場側から見た修法が原池

 この風景を見て少し思い出したのでした。遠足で修法が原に来たのは小学校6年生のとき。クラスで仲間割れをしたのか何なのか、理由は知らないけれど隣のクラスの女の子がワーワー泣いていました。泣いている女の子がいると、その子をかばう女の子たちが取り囲み、やはり男子ともめていました。なぜ、そんなことを覚えていたのかというと、泣いていた女の子がかぶっていた帽子に、ものすごく大きく「SMILE」と書いてあったからでした。傍観者だった者としては「これがほんまの泣き笑いか」とか思ったのだったと思います。

 

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コーヒーとスコーン

 ボートハウスだった建物は単なるカフェではなく、再度公園を活性化する拠点として活用するそうです。有機野菜を販売するマルシェを開催したり、修法が原池でスタンドアップパドル(SUP)の会を開くときの拠点にしたり、ボートハウスの2階を使ってフラワーアレンジメント教室を開いたりするといいます。というわけで、お茶とお菓子を買うのと同時にハンモックの貸し出しもありました。これはゆっくりできる。静かだし。

 

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借りて来たハンモック

 ちなみに、この日はたまたまライブ演奏を開催する日でした。午後1時から始まった最初のプログラムはボサノバ。少し離れてうっすらとボサノバを聞きながら、ハンモックに揺られて、なんという予想外のリゾート気分。これはやばい。これからバスで三宮に戻って、また原稿を書く作業に移る意欲が後退してしまいそう。ちなみにハンモックというのは、カンタロープ・アイランドとかの作曲者ではありません。(それはハンコック)

 

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ライブの風景

 次回のライブは11月だそうですが、残念なことにボートハウスのホームページは作っていないそうで、詳しい行事予定がよくわからないのです。紅葉も美しいということなので、近いうちにまた行きたいなと。六甲・摩耶の商業施設とは少し離れていて、静かな雰囲気がすばらしい。駐車場もあります。

 

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弘法大師の碑

 弘法大師が入唐する際に参詣し、戻った後にも再度参詣したことで、再度山と呼ぶようになったという言い伝えがあるそうです。その弘法大師の言い伝えが定着したからか、塩が原池と呼ばれていた池に「修法が原池」と別の字を当てて従来通りシオガハラと読ませるようになったという説があるようです。

 

「こどものための図書館」に対する一抹の不安

 いまはそんなことないかもしれないけれど、小学校や中学校の図書室がどうも苦手だった。かれこれ30年も前の話だから、まだ学校には蔵書が少なかったのかもしれないし、いまはLL教材も充実していて事情が異なるのだろうけど、要するに置いてある本が退屈だった。「少年少女名作落語」というシリーズは、よく借りて読んだけど、それにしても東京の落語だったのが不満だった。

 児童文学っていうのがどうにもダメだった。夏休みの読書感想文には課題図書というのが付きものだったが、そんな本が多かった。こどもながら、子供ダマシのストーリーだな、と思うことも多かった。たまに読んでも、それがどうした、そんなあほな、と突っ込み通しで、最後まで素直に読めない僕が悪いのかと思ったこともあった。

 小学校の図書室にあったマンガは2つ。「カムイ伝」と「はだしのゲン」だった。いつも人気で貸し出し中だった。先生たちはマンガだから人気があると思い込んでいて、以来、マンガが図書室に配置されたのは見かけなかったが(あくまで昔の話)、むしろストーリーの重みが魅力的だったから人気だったのだろう。

 小学校の高学年や中学生になると、社会の授業で調べ物の必要がある課題も出てくる。当時の図書室は、その需要に答えてくれなかった。たとえば、いつまでたっても神戸は世界で4位のコンテナ港だった。それで結局、大倉山の中央図書館に行く。「こんなことを調べたいのですが」と申し出ると、司書のみなさんはとても親切にしてくれた記憶がある。本を通じて何かを知る喜びに、大人と子供の違いはあるのだろうか。

 「子供向け」という書籍のジャンルは確かに存在する。まだ文字が読めない子供の想像力を掻き立てる絵本はあるだろうし、童話や偉人伝なども子供向けかもしれない。でも子供向けの定番とされる図鑑は、大人向けの図鑑の何が違うのだろう。ルビの有無とか? そんなの、どうでもよくないか? 図鑑だろ?

 安藤忠雄氏が神戸市に寄贈しようとしている「こどものための図書館」で、もしも「子供だからこういうのが必要だ」という一方的な決めつけで蔵書が選ばれるのなら、その図書館よりも喫茶店や床屋に置かれた文庫本やスポーツ新聞の方が、よほど活字に親しむきっかけになるような気がするが、どんなもんだろうか。

 

神戸ABCの旅(5)「E」会下山

●第5回 「E」 会下山

 シリーズ「神戸ABCの旅」ですが、ようやく第5回です。神戸の地名をアルファベット順に1カ所ずつ訪ねていくうちに、長らく離れていた神戸の土地勘も戻るのではないか、という企画です。しばらくぶりですが、お付き合いください。

 

 Eということで「え」で始まる地名ですが、いろいろある中で決めたのがこちら。

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  会下山です。「えげやま」は、難読地名ではないかと思います。たぶん知らなければ読めない地名でしょう。標高は80〜85メートルほどだそうです。兵庫駅をまっすぐ山の方向に歩けば、半分以上は平坦な道のりです。山というか高台という風情で、山頂に近づく最後の5〜10分に坂道と階段を登る程度です。

 見晴らしはとてもよく、神戸らしい眺望景観の「50選」「10選」の両方に選ばれているということです。ただ神戸の風景を表す記号としてのポートタワーは、上の写真だと左上の方に小さく写っています。観光地的な神戸の眺望とは趣が異なることもあり、基本的には観光客ではなく、地元の人が楽しむ展望台という作りになっているかと思います。

 

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この辺りは、やはり楠公さんへのリスペクトが強いエリアということかとおもいます。このほかにも「海員万霊塔」という石碑があります。命を落とした海員の慰霊碑ということですので、あるいは、こちらの方が近代以降の神戸らしいと言えるかもしれません。

 

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 そして謎の構造物。巨大な縫い針が地面に突き刺してあるのはなぜだろう、と思ったのですが、あとで調べたら神戸市内に15カ所だけ設置されたビューポイントのサインなのだそうです。神戸市として、ここが非常に「ほまれ高い」展望台であることを示しているのだそうですが、なぜ針の形をしているのでしょうね。この穴から覗きなさい、ということでもないようです。

 

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 会下山の下には、新湊川が通っています。もともとは前近代の港である兵庫津(ひょうごのつ)と、日米修好通商条約によって開港した神戸を隔てていた旧湊川を付け替えたのが新湊川で、川の流れを変えるために会下山には「湊川隧道」という大きなトンネルを掘ったという話です。

 

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 ただ、いま会下山の下を流れる湊川のトンネルは、「新湊川トンネル」という、さらに新しいものだそうです。阪神淡路大震災で被災したのをきっかけに、トンネルを改めることにしたと。そんな話の概要が、案内板に書いてありました。新湊川トンネルは、湊川隧道のデザインを引き継いだのですね。

 

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 都市の治水対策のために河川を付け替えた時は、しばしば両岸に加えて川底もコンクリートで固めて、できるだけ早く海に水を流してしまおうとすることもありますが、新湊川は川底をコンクリートにせず、親水スペースも作ったようです。もしかしたら、これも震災をきっかけに、改めて改修したのかもしれません。

 

 そんなことを考えながら新湊川を遡っていると、どの辺までが付け替えられた新湊川なのか、という興味が湧いてきます。明治以前の旧湊川の痕跡がどの辺りから見られるのか、というのを探してみようと思いついたのでした。

 「洗心橋」という橋のあたりまで川を遡ると、これまで直線だった川が曲がり始めます。そして、もう少し上流までくれば、川の合流地点に出会います。

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 合流するポイントの位置を大きく変えるのは、大きな工事になるだろうと勘を働かせたわけです。このポイントから洗心橋の間に、元の湊川の痕跡を見つけられるのではないかと。すると、ちょうどこの写真から後ろを振り返ったあたりに、伸びている道があったので、近づいてみました。

 

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 これは、新湊川ふれあい会館の前あたりになります。奥に見えているのが東山商店街のアーケードです。右側の家が建っている敷地と、左の道路が段差になっているのがわかります。これ、旧湊川の堤防の痕跡ではないでしょうか。違うかな。

 

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 湊川公園のあたりまでくると、かつて天井川だった旧湊川の痕跡として、旧堤防と地上との高低差が6〜7メートルあったのが、そのまま残っています。川を付け替えた跡地が新たな歓楽街「新開地」として大正から昭和にかけて隆盛を極めたのは、知られている通りです。

 

 2018年7月に新開地でオープンした寄席「喜楽館」は、1976年(昭和51年)に神戸松竹座が閉館して以来の演芸場だそうです。一時は隆盛を極めていた新開地も、昭和40年代にはかなり寂れていたということが想像されます。そのころには、すでに「神戸はかつて造船の街だった」という意識が高まっていたことでしょう。

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 もしかしたら、造船の街として極めた隆盛の名残りと言っても良いのかもしれません。新開地駅の地下街「メトロこうべ」で、ちょっと一杯、いただいて帰りました。もちろん(?)立ち飲みです。この日はすでに暑く、冷たい日本酒がありがたかったです。

 

▽シリーズ「神戸ABCの旅」

・第4回 「D」 道場(どうじょう) 前編 後編

・第3回 「C」 センタープラザ

・第2回 「B」 弁天町(べんてんちょう)

・第1回 「A」 相生橋(あいおいばし)

 

 

兵庫県は5国?

 兵庫県は「5国」(摂津、播磨、但馬、丹波、淡路)から成り立っている、というキャンペーンを熱心にしているが、あんまり5国って言わないほうがよいのでは。なぜなら、備前福河だって兵庫県だし、佐用町の一部は美作(みまさか)だったから。兵庫県の「県土」みたいな話をするなら、無視できるはずはない。

 それに摂津の中心的な都市である難波津は大阪府だし、丹波にしても亀岡、園部、福知山といった都市は京都府だ。兵庫県内の旧摂津と旧丹波の地域は、備前における備前福河との比較で見れば広い範囲かもしれないが、全部でないという点では同じ。

 そもそも廃藩置県といって、昔の国の概念を捨てたところから、兵庫県のような広大な県が成立しているのではないか。歴史も大事だが、あまり行政が回顧趣味に走るのはどうかという気はする。なぜ、いまの位置が県境になったのか、そもそも県境としてふさわしいのか、といったところにキャンペーンのヒントがあるのではないか……という気はする。

 ちなみに伝統的な日本文学に土地勘のある人なら「ゴコク」と言えば「米、麦、粟、稗、豆」だとか、「米、麦、粟、黍、稗」だとかを思い浮かべるのではないか。普通は五国ではなく「五穀」が正解だ。

 

神戸ABCの旅(4)「D」道場(後編)

●第4回 「D」 道場(後編)

 

前編はこちら。

 

 シリーズ「神戸ABCの旅」の第4回の後編です。Dが頭文字である神戸市内の地名「道場」を訪ねています。どちらかというと、後編は余談という風情です。

 塩田八幡宮で対面した意外なものといえば、これでした。

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巨大みくじ(許可を得て撮影しています)

 大きさが伝わりにくいかもしれませんが、ひと抱えもあるおみくじが、おそらくここの名物になっていることかと思います。八幡宮さまにごあいさつをした後、おみくじを引いてみると、結果は「吉」でした。商売にしても何にしても、どの項目を見ても「そのうち良くなるから、いまはおとなしくしとけ」という内容でした。おとなしくしていて良いことがあるのなら、それでも良いのかもしれません。

 というわけで塩田八幡宮から下山して、再び神鉄道場駅をめざして歩き始めました。

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道場町案内図

 4月に発足したばかりの北神区役所が関係した真新しい案内図の隣にあったのは、道場町の案内図でした。ややくたびれた形の案内図でしたら、これが道場駅の前にあるとありがたかったね。もとよりJRの道場駅前においても、ふらっと道場を訪れる人も珍しいと思われるので、なかなか役に立たないのかもしれませんが。

 この案内図や手元のスマートフォンなどを頼りに神鉄道場駅をめざしていると、「松原城跡」という城跡があったのが分かります。駅のすぐそばということもあって、これは立ち寄ってみなくては。そう思って近づいていったのですが、行ってみると、こういう感じでした。

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原城の入り口

 「立入禁止」ですかそうですか。それでも史跡なのだから、何かあるだろうと思いつつ周囲をウロウロしても何も見当たらないので、これは誰かに聞くしかないのかなと思い、ラーメン屋さんに入ります。上の写真の立ち入り禁止の表示の左側に見えている建物が、ラーメン屋さん「中華そば ふじた」さんなのです。

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ワンタンメン

 思わずワンタンメンを注文してしまったのですが、美味しかったです。ネギの下に隠れて見えませんが、ワンタンも結構たくさん入っていました。松原城跡の話も聞いてみると、「いまは発掘調査中なので入れない」とのこと。なんでも開発があるので、という話でした。非常に残念です。それにしても史跡であることを示す案内板ぐらいはないのかと探してみると。立ち入り禁止を示すロープの随分向こうに、案内板が立っているのが見えました。残念ながら、案内板の中身を確認することはできませんでした。

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原城

 この築山みたいな小高い丘みたいな盛り上がりが、松原城跡です。神鉄道場駅を通り過ぎて、ニュータウン「鹿の子台」から撮影しました。松原城跡の向こう側にラーメン屋さんがある、という位置関係です。入れないはずなのですが、青い服を来た人がいますよね。作業員さんでしょうか? 何か作業をしている風情でもないですし、しかも訪れたのは祝日だったのですが。

 ところでこれ、戦国時代の歴史的な遺産だと思うわけですが、開発で取り壊してしまうのでしょうか。取り壊して何を作るのでしょうか。住宅とかショッピングセンターとか作るのなら、人口減少で空き家が増えているご時世。城跡のまま入場料を取った方が長い目で見てよほど儲かると思いますが・・・。

 

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 神鉄道場駅です。JRの道場駅とは反対側が正面になっています。ニュータウン「鹿の子台」に向けて開かれた駅舎ということでしょう。古くからの道場町の側は出入り口としては階段が一本あるだけで、簡素なものでした。ところで、この駅ですが、こんな看板も出ていました。

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 もっと早く気がつくべきだったのかもしれませんが、柔道場、空手道場、神鉄道場、という感じですね。神鉄について研鑽を積むには、ここに来る必要がありそうです。そういえば、ここに来るまでに「道場児童館」というのもありました。道場なのか、児童館なのか、はっきりしてほしいという要望は・・・たぶんないと思います。

 この辺の神戸電鉄は単線で、神鉄道場はすれ違いのできない駅ということです。ただこれ、航空写真を見ると、昔はすれ違いができる駅だったのを、線路を撤去した感じですね。いずれにしても、行きたい方向とは反対の電車がくると、しばらく目的の電車は来ないということになります。新開地方面行きの電車に乗ろうとしていると、三田行きの電車がくるということでしたので、しばらく駅の外にいることにしました。すると来た電車は、ちょうどヘッドマークを付けた電車でした。

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 「平成から令和へ」。神戸電鉄の列車のなかでも3編成しかない、このヘッドマークを付けた列車に偶然にも遭遇。幸先のよい令和のスタートだと思いたいです。

 

▽シリーズ「神戸ABCの旅」

 ・第3回 「C」 センタープラザ

 ・第2回 「B」 弁天町(べんてんちょう)

 ・第1回 「A」 相生橋(あいおいばし)

神戸ABCの旅(4)「D」道場(前編)

●第4回 「D」 道場(前編)

 シリーズ「神戸ABCの旅」の第4回です。神戸の地名をアルファベット順に1カ所ずつ訪ねていくうちに、長らく離れていた神戸の土地勘も戻るのではないか、という企画です。引き続きお付き合いください。

 Dで始まる地名は、どうしても来たかった場所「道場」です。

 JRには国鉄時代から、大都市向け特例制度があります。大都市を出発地または目的地とする長距離(201km超)の切符は、その都市内とJRが認める駅の最短距離までの運賃を適用する、というルールです。つまり尻手駅(神奈川県川崎市)から垂水駅(神戸市垂水区)まで乗車する場合、JRは横浜と川崎を一体とみなしていることもあり、戸塚駅横浜市戸塚区)から甲南山手駅(神戸市東灘区)までの料金を適用するという制度です。ちなみに東京都区内〜神戸市内は、往復するなら東京都区内〜西明石の方が600km超に適用される往復割引でお得になります。

 そこで気になるのは今回のテーマの「道場」です。なぜ気になっていたかというと、これです。

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交通新聞社「JR時刻表」より

 「(道場駅を除く)」。神戸市内行きの切符には必ず書いてあります。それで、切符を買うたびに「道場どこやねん」と思っていたのですが、これまで用事もなく、行く機会もありませんでした。そこで今回、道場を訪ねてみるのにはとても良い機会になったわけです。三ノ宮から970円。いったん尼崎に出て福知山線(JR宝塚線)に乗り換え、1時間ほどかかってたどり着いたのは道場駅

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無人駅だった

 電車が通り過ぎるとシーンとしている。無人駅でした。道場駅から千刈貯水池まで2.0kmだという案内表示がありました。あてもなく歩くわけにも行かないので、ひとまず神戸電鉄神鉄道場駅をめざします。少し歩けば、こんな風景でした。

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道場の田園風景

 のどかな風景。人口150万人の都市の一角とは想像も付かないような風景ですが、ここも確かに神戸市だというのが、電柱を見れば分かったりします。

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 電柱には確かに「神戸市」とあります。見覚えのある巻き物です。さらに歩いて行くと、道に植えられた遅咲きの桜、ヤエザクラ?ヤマザクラ?が満開でした。

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歩道に植えられた桜が満開

 この辺りは武庫川の支流、有馬川の川沿いを歩けるように遊歩道が整備されています。そして川沿いを歩いていると月見橋に差し掛かったところで、「松風」「村雨」という平安時代の姉妹と出会ってしまいます。

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月見橋の案内板

 松風、村雨の姉妹といえば須磨の海岸から須磨離宮公園に向かう途中、離宮道の途中に「松風村雨堂」という、姉妹の供養塔などをまつった建物があります。謡曲の「松風」でも知られています。須磨に流された在原行平(業平の兄)が、須磨の浦で出会った姉妹を愛人にします。行平が京に戻った後も、姉妹は行平を慕い続けたという話です。須磨の松風&村雨姉妹が月を眺めた場所というけど、須磨からは遠いのはどうなっているのだろうという疑問が浮上するのですが、そこは「詳細は塩田八幡宮の立て札参照」だそうです。やや乱暴な気もするけど、特に急いでいるわけでもないので塩田八幡宮をめざすことにします。

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かや葺きの家屋

 塩田八幡宮の入り口までは歩いて10〜15分の道のりなのですが、途中でかや葺きの家屋を見かけました。立派なお家です。神戸市北区はかや葺きの民家が700棟ほどあるそうで、日本でも有数のかや葺き農家が残っている地域なのだというのを聞いたことがあります。かや葺き農家が残ったのはなぜか。維持ができたということや、工場用地などに使われなかったとか、複合的な要因があるのでしょう。そんなことを考えながら歩いているうちに、塩田八幡宮の入り口まで到着しました。

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塩田八幡宮の参道入り口

 なんか立派な神社。本殿は小高い丘の中腹にあるようなのですが、その登り口にたどり着くまでに参道が整備されています。緑の柱に小さな屋根がついた架線柱のような構造物は、すべて電線で結ばれています。お祭りの時に提灯をさげ、提灯には電気で明かりが灯るのでしょう。こんな立派な神社を知りませず、申し訳ありませんでした。

 塩田八幡宮の本殿をめざして石段を登り始めるところの手前に、探していた例の立て札(案内板)がありました。

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厳島神社の外観

 写真の右下には「旧月見橋跡」という石碑が見えています。ここが、かつて月見橋があった場所だというのです。案内板によると、「摂津名所図会」では松風&村雨の姉妹は在原行平が京に戻った後、須磨の浦を引き払い、この地に住みつつ京の行平を恋い慕っていたことになっているそうです。ただ、須磨の松風村雨堂には、須磨の当地こそ行平が京に去った後、松風&村雨の姉妹が庵を結んだ地という説明があるようで、まあ諸説というわけですね。

 中世の日本では須磨も有馬もリゾート地なのでありまして、須磨は西国街道だし、有馬川沿いに有馬と京・大坂との人の往来があったことも想像に難くないというわけです。塩田八幡宮の周辺は、いまはすっかりのどかな場所ですが、にぎわった往時の名残りが松風村雨伝説ということなのでしょう。ちなみ往時とはいつか、という話なのですが、意外に最近のようなのです。1943年に三田〜有馬の国鉄有馬線が事実上廃止されるまで、この辺りは塩田駅の「駅前」でした。神戸電鉄の開業で有馬温泉までの動線が切り替わるまで、この辺はかなりにぎわっていたのではないかと想像されます。

 ちなみに旧月見橋の碑の隣には厳島神社という、ほこらがあります。

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厳島神社の境内

 これは神社の周りに堀を張り巡らせて、水流が変化する前、この地に月見橋があったころの様子を再現している、という説明が例の案内板に書いてありました。でも水に浮かぶ厳島神社って、平清盛が大事にしたという安芸の宮島を連想してしまいますよね。須磨といえば一ノ谷なので、松風&村雨平清盛に関連する伝説がセットになっていてもなんとなく理解できるような気もします。どうなんでしょう。田辺真人先生あたりにうかがうと、スラスラ答えてくださるのかもしれません。

 「立て札」は見つかり、所期の課題は解決しましたが、せっかくなので登ってみることにします。

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塩田八幡宮の参道・階段下

 本当に立派な神社でした。こんなの小学校3年の「わたしたちの神戸市」で習わなかったわけですが、郷土史がつまっている感じです。(後編に続きます)